2004-09-23(木) [長年日記]
_ 『echo - 夜、踊る羊たち -』と物語の形態
枯野瑛『echo - 夜、踊る羊たち -』読了。
読んでいると、伝奇というかですね、「この手」の類型をなぞっているのがすごく気になっていたのでした。
男の主人公が住む町で猟奇的な殺人事件が連続して発生する。主人公には身内に大事にしている女の子がいる。もしかしたら事件の犯人はその女の子かもしれない。主人公or近しい人間は特にケンカや格闘に強いわけではないが、素人ながら「犯人」に接近してしまう。たいていは、その女の子を[疑って/疑いを晴らすために]監視したりしている。
最近だと「inclusion」、「電波的な彼女」、「echo」、「空の境界」(のメインの2人のエピソード)、最近でもないし組み合わせが逆だったりするが「痕」も。『DAWN 〜冷たい手〜」や「寄生獣」だって似たような形だけど、こちらは当事者だな。
(はやみねかおると比べるわけではないが)人が死なない事件でもいいじゃんと思ってしまうのだけど。なぜ、身の回りで連続殺人(または失踪)が発生して、もしかしたら全く気づかなかったかもしれない事件に関わってしまうのか。というか連続殺人でもいいけどなんでそれはごく身近なやつが犯人だったりするのか。
プロップの『昔話の形態学』ではないけれど「ライトノベル」で採用されがちなプロットの類型化してみたらかなり少ない要素に集約されそうな気がする…。
『echo』の場合はこれに「民話」を絡めて民俗学的味付けをしようとしているのだけど、あまりうまくいってると思えない。
物語の変形バージョンが皆無なのは「今もこの町で同じことが起きているからだ」という演繹はちょっと無理があるし、「犯人」と直接対面することになる場面についても、その日何かあったとかカマをかけてみたら反応がマジだったとか言うわけではなく、屋上にいる姿を見かけて(ずっと尾行してたんでしょうか)追いかけるという、なぜその日その場所だったのか(部屋に戻ってきたところで問いつめたほうがまだ解りやすい)というのがイマイチ解らない。
読者には「獣」の正体がかなり早い段階(つーか読み始めたときから?)見えてしまうのに、登場人物がなかなか思い至らないのはみていると頭が悪く見えてしまうので適度なバランスを取ってほしいところだが、難しいのかも。
ちなみに「
_ 『日経情報ストラテジー(11月号)』(日経BP)
「誤算を生かす」とか。