2005-10-07(金) [長年日記]
_ 犬上すくね『ういういdays(3)』(BAMBOOコミックス)
あいかわらずのドジカップルとか遠恋カップル。
妙子が不治の病に、、、それは…(読者には丸わかりだが)。
今回は潮と妙子より、薫子のほうが多かった感じだなあ。薫子のエピソードも好きなので問題ないが。「SWAN SONG」の片桐先生もよいけど。
ういういの制服は紺ソックスにスカートの裾のストライプがアクセントになって良い感じ。
_ 大島永遠『同棲レシピ』(ヤングガンガン)
ヤングガンガンで始まった月イチ連載。 前に一回読み切りがあった記憶があるのだけど。
彼女と同棲しようとしたのはいいけども、親父さんが強面のヤクザで娘に手を出したらぶっころーすといわれていて、おまけに彼女は天然に誘惑っぽいことをするので悶々と。
ノリは『女子高生』だな^^;
_ 伊藤剛『テヅカ・イズ・デッド』(2)
読了。
けども、著者の興味と自分の興味がずれていていまいちしっくりこない。読んでても文章が素通りしてしまった。
思ったことだけ書いておきます。
マンガはつまらなくなったのかそうじゃないのか論
他の論者の「マンガはつまらなくなった」論に対して、88年頃以降が視野に入っていないのは論者が用いているフレームの限界といっているが、論者(モノカキ)同士の対立にしかみえない。マンガを楽しんでいる読者に対しての新しい知見がないように見える。
まあ論じる側の問題を取り上げているのだろうが、コマ取りの視点に加えてキャラとキャラクター、誌面とフレームを取り入れれば解決するのだろうか。というかそんな視点から「新しさ」を見いだせないと「おもしろくない」のだろうか?
マンガを読んでても(自分が用意している)マンガ表現技法の枠組に当てはまらないとおもしろくないもの?それで、別の枠組みで論じられるようになればおもしろいのか?
いや、もちろんいろんな枠組みで分析するのはおもしろいのは解るけど、マンガがおもしろいかどうかと、表現史上の新しさが見いだせるマンガがないと言う話がいっしょになってないだろうか。
手塚を起源としない論
これは個人的にはどうでもよいのですが。
上の話とも絡むが、手塚を起源として88年頃で(論者の)年表が止まっていて、手塚を「誤って」起源にしているせいで手塚も変わっているにもかかわらずすべて手塚との対比で語ってしまうことで見えなくなっているものがあるというのだが、今の読者は手塚治虫を知らないこともあるわけで、重要な古典ではあっても、あまり重要視されてないと思うなあ。というか戦前からあった手法だから手塚は起源ではないかもしれないが、この点で新しい、、って話は読んでると不毛。
もちろん技法として手塚が開いた道を(知らずに)踏襲していることは多いのだし、軽んじる必要はないのだけど、ほんとタイトルにもあるように「表現史」上の扱いだけの議論だな。
キャラとキャラクター
えーと、これ、やりたいことが解りませんでした。
それはともかく、「キャラだから悩みないもん」と登場人物が自己言及しているからといって字句通り受け取るのはナイーブと思います。
また、小池一夫が『誌上劇画村塾』でキャラの立て方について確かに「人生があるのだとわかるような」話は合ったのですが、文脈としては人物を登場させるときに見分けが付くようなエピソードや特徴とセットにすれば大勢だしても印象に残ると言う話と並んでいるので、「本当に実在する人間」の様にに見せることが主眼ではなく、「登場人物の人となりや行動が」想像できる程度に印象づける必要がある話ではなかったかと思います。つまり、リアリティというよりはキャラクターの特徴を出そうと言う話だという認識です。