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煩悩日記

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2010-10-21(木) [長年日記]

_ 内田樹『街場のマンガ論』(小学館クリエイティブ)

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10月になってから出た本(10/10のサイン会でこの本にサインしてもらった)。

描き下ろしやテーマを絞ったものではなく既存の文章を集めたものなのでまとまりには欠けるが、普段他の本で見かけることと変わらないので、読者ならわかるかと。

読書ノート風に書いてみる。

井上雅彦論

井上雅彦について2点。

  • 井上雅彦のマンガは、急激に成長しなければならない状況に置かれた少年を描くビルドゥングスロマンである。(バガボンドの舞台の時代はまず生き延びることが切実であった)そんな状況の成長を描いている極めて教育的な作家である。
  • 井上雅彦が描く剣術や立ち会いは非常に正確で、武道の真髄をとらえている。{{''<BR/>}}これは雪だるまを切るときの正中線が通ってる姿勢や、片手切りのバランスの取り方、刀を抜かないでシミュレーションをしているうちに相手にぶつかってしまい相手も気圧されて何も出来なかったというシーンなど。

※井上雅彦は、うまいなあとは思うものの個人的には読んでないし動向いえる状態ではないのでコメントは出来ません。

日本語の表意文字/表音文字とマンガの絵/ネーム

日本語の表意文字である漢字と、表音文字のひらがなは、頭の中で処理する部位が異なる。識字率が低い、または速読すると意味をわかってない人がヨーロッパあたりと比べて日本では少ないのは、この処理の違いではないか。(これは何度か見かけた)

マンガも日本人は同様に絵とネーム(フキダシ、その他のセリフ、ト書き)を別々に処理しているのではないか。アメコミは絵に動きがあるときはセリフが止まり、セリフが長いときは絵が止まる。

だから日本のマンガは(絵の技術とか別として)絵と文字が多重化し、(大塚英志が紡木たくの分析をしたように)セリフも多重化して、独自の発達をしているため、外国人が日本のマンガを読むにはリテラシーを身につける必要な状態。

ちなみに、口に出した台詞やモノローグ以外の「意識に上がってない思い」を書いたのが少女マンガで、これには別のリテラシーが必要(それがないと少女マンガがわからない)とのこと。

反米ナショナリズムと少女マンガ

24年組がヨーロッパあたりを舞台にした壊れそうなイメージのマンガを描いたのは、安保騒動が挫折したのを引き継いで、反米・アンチマッチョを指向したから。だからアメリカのハイスクールというのは少女マンガで描かれない、という。

BANANA FISHはアレは少女マンガリテラシーがなくても読めるからちょっと例外にさせて。。というのだが、『ファミリー!』とか成田美奈子はアメリカ舞台だよな−。24年組の絶頂期のことはさておき、「それは(括弧付きの)少女マンガじゃないから」という説明は「アメリカの明るい面を描いたのは少女マンガではない」と言うことになりかねず、トートロジーになってしまう気がする。

ギムナジウムとかに走ったのは、「反米」だったのか何ともいえんなあ。ブンドル(古い)的に「美しくない」からではないかと。陰影が無さそうというか。

意図的に「大風呂敷」で語ってる気がするので細かいことは気にしない。

アメリカと日本のセルフイメージ

アメリカンヒーローは、正義の味方を頑張ってるのにみんなから理解されない孤独な正義感。

日本の場合は、強力な破壊力を持つ巨大ロボット(≒米軍)の力を借りて、無垢な少年(≒日本が)、やむを得ず極東限定の平定をする。

まあ「ザンボット3」だと理解されないヒーローというプロットだったがあれば珍しい方だからなあ。

非実在青少年

本文ではなく折り込みで、非実在青少年の規制に対する反対意見を述べている。

「表現の自由」を全面にいうのではなく以下の論による。

  • 日本より表現の規制が厳しい国のほうが犯罪が多い
  • 規制することで効果があったという事例をみたことがないので説明を信用できない
  • 統計的にはより表現が規制されていた頃よりも遥かに犯罪が減っている。

なのでいま規制をしなければまずいという喫緊の課題となる理由がわからない。という趣旨。

おもわずまねて言いたくなるが、統計的な裏付けを持っていないので慎む。

_ 内田樹『私の身体は頭がいい』(文春文庫)

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これもちょっとノートからのメモって感じで。

「私の身体は頭がいい」というのは、頭で考えたことより体が感じた反応のほうが正確で、頭が逆らわない方がいいというはなし。

内田樹は仏文学者ではあるが、合気道は多田宏に師事して30年以上続けていて実は仏文学大学教員歴より長いということなので、感覚は信用するのであった。話面白いし。

目にとまったあたりをメモ。要旨を書いているが、書いてあったとおりの表現ではないので、変に伝わった場合は内田樹ではなくわしの責任ということで。

剣を使うときは、ものを噛むとき歯をよけながら舌を動かすように、自分が振り下ろしている剣の通り道をじゃましないように動けば危険はない。
刀は重いので、止めようと思ったら止まらない。体の一部と思って「止まる」のだと思わないといけない。(原理としては)
相手がこうきたらこうよけて、、と考えるのは相手の主とし自分を従にしてしまう点で、取り戻せない「絶対的な遅れ」がある。
武道が精神論的になってしまい科学的な話かたがされて来なかった理由はなぜか。その背景は主に二つ。富国強兵策の際に民衆を即席で使える兵隊に育てるために、身体の統制だけに偏ってしまい、危険・不快を察知する力や人をまとめる力をオミットしてしまったこと。敗戦後GHQから武道を禁止されたため、スポーツ化することで生き延びることになったため。
嘉納治五郎が講道館柔道を広めようとしたときも、当初は、危険回避するための訓練でもある「型稽古」と、安全な範囲で組み合う「乱取り」の両輪であったはずが、学生には型稽古が危険であることなどから、柔道を体育科目として採用してもらうために「乱取り」だけで構成せざるを得なかったこと。
居着くことをさけなければならない。体が動かないことを指すだけでなく、何かの考えに執着することも居着きである。
頭で考えて手足に指令を出す「中枢的」な動きは、予備運動がどうしても発生してしまうので相手にサインを送ってしまう。体の各部位が石火の機で反応出来るようになるのが望ましい。
体を割ること。
体を「割る」とは体を開くとかいうことではなく、動きを微分して(というのが適当なのか)、細かい拍子で制御できるようにすること(割っていくこと)。ピアニストがキーを1cm押し込む動きだけでもたとえば10分割して強弱や表情をつけられるように、体を割っていくと(制御できる時間単位を細かくしていくと)相対的に相手の動きがゆっくりと見えてくる。
今までにない体の割り方をしていくと、目慣れない動きなので、相手は目には見えているのだが、「何をしているのか理解できない」(多分、これから何をしようとしている動作なのかがわからないとかそんな感じか)。そうなると相手は対応することができない。
「序破急」に関連して。
(上の中枢的な動きは読まれるというのと同じく、頭で考えていることは無意識にモーションとして現れるので相手にも察知出来てしまうという前提で)
 たとえば刀を本当より2寸長いと自分で信じて立ち会う場合、鞘から刀を抜こうとすると、思っていたのより2寸分早く刀が抜けることになる。逆に相手からしたらモーションその他から読み取っていたタイミングより2寸分早く刀が振られてくることになる。
武道は、勝敗や点数を競うためではなく、(今は平和なのであまり必要と思われていないが)身の危険や不快なサインを感じ取って、生き延びる力をつけるために学ぶのに必要である。

あれ、要旨を書くところとコメントを分けようと思ったのに別れなかった。これだったら箇条書きでもよかったな^^;

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