2005-04-02(土)
_ KOTOKO「LIVE TOUR 2004」DVD初回限定版
ほんとは「KOTOKO LIVE TOUR 2004 〜冬の雫が連れて来た君が聖者だ★Happy White X'mas★〜」というらしい。(ちなみに英語ではX'masじゃなくてXmasが正しいのだが)
BOX仕立てで大きい。でも以前からの好きな曲は4曲程度…。
DVD 2枚組で、初回限定版は特典でフォトブック、バンダナ、ギターピック、映像特典入り。
→Amazon
_ 和楽食堂 神代
またまた「スマイル寝屋川」から「神代(じんだい)」。駅からちょっとそれたところにある。旧トップセンター裏らしいです。つうてもトップセンターをしらんからなあ。
店内は写真から想像したよりずっと狭い。座敷かカウンターどっちか。
海鮮の店というわけでもないのだろうけど、魚系料理が多い(焼魚はないけど)。
豚角煮が欲しかったけど無かったのであきらめて白子塩焼きと鯛あらだき、ハマチの造り。
鯛のあらだきは注文してから造るので時間は掛かったけれど、頭丸ごと煮込んだのはうまかった。鮭茶漬けも味が濃くて好みだったし。
CLIEで写真を撮ってみたけど、暗いところでは全く使えないことがわかった…。
→
2007-04-02(月)
_ ひさしぶりに単体露出計の電池を交換した
昔買ったセコニックの「マルチマスター L-408」。
単三電池が粉吹いてましたよ ^^;
交換したらちゃんと動作。ちょっと操作方法を思い出すのにとまどったが、まあまあ大丈夫。
たまには単体露出計で目検の露出が適切か確認しながら撮ることにしよう…。
_ 神崎京介『h 《エッチ》』(講談社文庫)
『女薫の旅』の神崎京介の新しいシリーズ。(と言っても、既にもう何冊か出ていてこれはその文庫版)。
妻子がある42歳のサラリーマンの主人公が、厄年にあたって憂鬱だなとおもっていたら、逆に女性にモテはじめるという話。
いや、略してしまうと身も蓋もないのだが、…ディティールをみてもそれ以上のことはないのだった。だって、なんでモテるのか判らなくて、あった女性や目を交わしただけの女性から誘われたりするんだもん。
ああ、俺もこんな目に、と思ってるサラリーマン向け作品以外の何であろうか、と言って読んでる自分も同じなのが悲しいのう :-)
ちなみに、相変わらず避妊という発想がありません :-) ほぼ初対面でエッチする相手なんだからどうするかぐらい気に留めろよ :-)
_ 宮武一貴『宮武一貴デザイン集 HIGHLY ORIGINAL WORKS』(幻冬舎コミックス)
店頭で見かけたので即買い。
スタジオぬえのメカデザイナーとして今も活躍する宮武一貴のデザイン集。
ただし収録されているのはアニメや映画作品のための、動かすことを想定したメカ設定、というものを集めているので、「さよならジュピター」「テクノポリス21C」、「聖戦士ダンバイン」、OVA版「宇宙の戦士」、「星方天使エンジェルリンクス」、「スーパーロボット大戦」、「交響詩篇エウレカセブン」、「舞-HiME」(←知らんかった)等が紹介されている。(初期のメカデザインそのものではなく、人のデザインのメカイラストみたいな仕事も収録)
この中で一番ちまちましたというか宮武っぽくて好きなのは「さよならジュピター」関係のメカ。アニメメカだと「テクノポリス21C」と「ダンバイン」だけど、ダンバインはぬえメカって感じじゃないしな。
ちなみに大昔(1980年代)にアニメージュ付録に付いていた『スタジオぬえデザインノート』という小冊子があって、それだと「さよならジュピター」「テクノポリス21C」以外にも「ユリシーズ31」のデザインも収録されていた(実家に戻らないと確認できないが)。当然ぬえの本なので、河森・加藤・松崎と言う面々も紹介されていた。
なので個人的にはダブリ感はあるのだが、今更そんなもの持ってる人も少ないだろうし、「さよならジュピター」、「テクノポリス21C」あたりはモノグラフも録にないようなの、宮武一貴が好きな人なら買って損はない。
さっき「さよならジュピター」メカを「ちまちました」と言ったのだけど、宮武の線画で好きなこの系統は『SFマガジン』で連載していたイラストコラム「スターシップライブラリー」やら、石原藤夫の『SFロボット学入門』あたりのイラストも当然収録されていません。
せめてSFマガジンの連載ぐらいは(著者ごちゃ混ぜでも良いので)単行本化して欲しいのだがなー。
_ マナーハウスDVD-BOX
『エマ』8巻に入っていたチラシは見ましたか。
そう、「MANOR HOUSE(マナーハウス)英国発 貴族とメイドの90日」のDVD-BOXの広告です。
しばし悩んだ末にポチしてしまった :-)
まぁ、ほんとは森薫が後書きなどで「いい」と言ってた資料(というか映画とかだが)もチェックせねばならんのだけど、一番手頃だし…。
もちろん、特典の、村上リコ・森薫・もとなおこによる「エドワード朝生活の手引き」とかも目当てですが :)
ちなみに、このコンテンツの正確からしてメイド紹介が主眼ではないので、メイドそのものについては過剰な期待はしていません……。
2011-04-02(土)
_ E.W.サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー)
昔単行本を買ってたような気もするけども平凡社ライブラリー版で読む。
1993年にBBCのリース講演でサイードが講演した内容。
その当時ですでに陳腐化しつつ「知識人」について、知識人は何を代弁すべきかを語ったもの。
ちょっと長いが、気になったセンテンスをメモっておく。
わたしが主張したいのは、知識人とは、あくまで社会のなかで特殊な公的役割を担う個人であって、知識人は顔のない専門家に還元できない、つまり特定の職務をこなす有資格者階層に還元することはできない。
大衆に迎合するだけの知識人というものはそもそも存在してはならない。知識人の語ることは、総じて、聴衆を困惑させたり、聴衆の気持ちを逆なでしたり、さらには不快であったりすべきなのだ。
その根底において、けっして調停者でもなければコンセンサス形成者でもなく、批判的センスにすべてを賭ける人間である。つまり、安易な公式見解や既成の紋切り型表現をこばむ人間であり、なかんずく権力の側にある物や伝統の側にある者が語ったり、おこなったりしていることを検証も無しに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である。ただ単に受け身の形で、だだをこねるのではない。積極的に批判を公的な場で口にするのである。
これは知識人の使命を政府の政策に対する批判者に限定することではない。むしろ、たえず警戒を怠らず、生半可な真実や、容認された観念に引導を渡してしまわぬ意志を失わぬことを、知識人の使命と考えると言うことだ。
フランツ・ファノンによれば、原住民の側に立つ知識人の目標は、白人の政治家の後釜に原住民の政治家をすえることだけではない。(略) なるほど知識人が民族存亡の危機に瀕した共同体を支援することには、計り知れない価値があるにしても、知識人が生存のための集団闘争に忠誠を尽くすことは、批判的感覚の麻痺や知識人の使命の矮小化につながりかねないので避けるべきなのだ。知識人にとってなすべきことは、生存の問題を超えて、政治的解放の可能性を問うことであり、指導層に批判をつきつけることであり、代替的可能性を示唆することである。たとえ、この代替的可能性が、いつもまぢかにひかえた戦いには無関係なものとして周辺化されたり一蹴されるとしても。虐げられた者たちのあいだにも、勝利者と敗残者がいるため、知識人が、凱歌を上げて勝利の行進をする集団の側にだけ忠誠をつくすようなことがあってはならない。
知識人の老獪なふるまいのなかでもっとも姑息なのは、他民族文化における悪弊を声高に告発しておいて、そのくせ自民族文化におけるそれとまったくおなじ悪弊には目をつぶるというやり方である。
(ここでサイードは、トクヴィルがアメリカの民主制を評価しつつインディアンや奴隷制度を厳しく批判していたのに、フランスのアルジェリア政策には口をつぐんでいたことを批判している)
自分のアイデンティティならびに自分が属する文化や社会や歴史の実際のありようと、他社のアイデンティティや文化や民族の現実とを、いかに和解させるかが基本的問題になってくる。この場合、すでに自分が属するものを優先させるような姿勢をつらぬこうものなら、和解などとうてい望めない。「われわれの」文化の栄光についての、あるいは「われわれの」歴史の勝利についての鳴り物入りの宣伝は、知識人が心血をそそぐような行為ではない。とりわけ、自国民を顕彰するような、このような還元化は、多くの社会が異なる人種や民族的背景からなりたっている現代社会において、およそ実情にそぐわない。
(特定の思想や体制を崇拝することにたいして)
いかなる種類の政治的な神であれ、わたしはこの神に改宗・転向したり、この神を崇拝することには断固反対である。転向も崇拝とともに、知識人の行動にふさわしくないと考える。もちろん、だからといって、知識人は水辺にいて、ときおり足下を水に浸すことがあっても、おおむね体を濡らさないようにすべきであるなどというつもりはない。(略)
知識人にとって、情熱を燃やして関与することが、リスクをひきうけることが、真実を暴露することが、主義や原則に忠実であることが、論争において硬直化しないことが、世俗の様々な運動に荷担することが、とにかく重要であるということだった。たとえば、わたしが専門家とアマチュアのあいだに想定した差異とは、まさにこれである。つまり専門家は自分の専門という基盤にたったうえで冷静な判断を下し、客観性をおもんずるのに対して、アマチュアのほうは、褒賞とか将来の経歴に関わってくる業績求めようとしないだけに、公共の場で誰かれにはばかることなく思想なり価値観を表明したいと望むのである。
サイードもスーザン・ソンタグも亡くなって、何かの時に発言を気にするような人がいなくなった気がする。